モンゴル抑留死亡者名簿

「私の祖父は日本人抑留者」というモンゴル人女性

 米国・テネシー州に住むモンゴル人女性から32日、突然、英文のメールが私のもとに届きました。

彼女は現在、54歳になるムンクジン・バサンチェレンさん(写真)。私がモンゴルからこれまで知られていなかった日本人抑留者に関する記録を発見したことを記した新聞記事をGoogle検索で偶然、見つけ、「詳しい情報を伺いたい」と、記事に書いてあった私のアドレスにメールを送ってきたのです。

 驚いたことに、彼女は、「私の祖父は日本人抑留者です。顔も知らないこの祖父のことを知りたいのです」と言います。

 私はモンゴルに行くたびに、日本人抑留者の中にはモンゴル人女性と恋仲になった人がいて、子どももできたという話を聞きました。ただ、いずれも伝聞情報で、実際にその子孫に遭遇するのは初めてのことです。

 それによると、彼女の祖母はガラムジャブという名前で、20代前半の頃、ウランバートル東部の建設現場で会計士として働き、そこにいた日本人抑留者の仕事を手伝っていました。

 その際、緑色の軍用トラックを運転して、伐採された木材を運んでいた30歳くらいの日本兵と知り合います。

 二人は、車で一緒に中心部の国立オペラ・バレエ劇場の建設現場に向かうようになり、かなりの時間を一緒に過ごし、恋に落ちました。

 日本人抑留者に一斉に帰還命令が出るのは、1947年10月です。それより1年2か月前に、「ヒム」が姿を消したのは、なぜだったのか。

 私は、「ヒム」がモンゴル当局から収容所の移動を命令されたのか、あるいは病気になって入院したのか、どちらかだったのではないかと、自分が考えた推論をムンクジンさんにメールで伝えました。

 当時は、どちらも頻繫に起きており、抑留者たちは自分の仲間にすら、十分な連絡を取れないまま、移動させられていたためです。

  ところが、1946年8月、祖母が「ヒム」と呼んでいた日本兵は突然、祖母の前から姿を消してしまいます。その後、祖母は身ごもっていることがわかりました。祖母は、ソ連との国境に近いモンゴル北部の郷里のフブスグルに戻り、1947年3月18日、ムンクジンさんの父親を出産し、バサンチェレンと名づけました。

 モンゴルの人の名前は「本人の名前+父親の名前」の構造になっていますので、ムンクジンさんの名前には、父親の名前のバサンチェレンがついているのです。

祖母のガラムジャブは最愛の人がいなくなった哀しみに耐え、バサンチェレンを医師に育て上げました。社会主義時代のモンゴルでは、日本人は「侵略者」「敵」の扱いです。ガラブジャブは息子の出自を隠さねばならず、より子育ては大変だったと推察されます。

 にもかかわらず、バサンチェレン(写真)は「医師、実業家、スポーツマン」という3つの顔を持つモンゴルを代表するリーダーとなります。まず、本業の医師では、耳鼻咽喉科の外科医として知られるようになり、大規模な病院は国立病院しかなかったモンゴルに専門性の高い治療を目指した民間医療企業を立ち上げます。先駆的な目があったのでしょう。

ありし日のバサンチェレンさん

 さらに、射撃競技の選手としても活動。世界規模のマスターズ大会で銅メダルを獲得するなど活躍し、モンゴルで国際的な実績を残したスポーツ選手に授与される「モンゴルスポーツ功労マスター」にも選ばれています。

ただ、社会主義時代、一党独裁体制を敷いていた人民革命党からは「医師としての評判を落とす話は漏らすな」と固く命じられたと言います。社会的地位が高くなればなるほど、「日本人の息子」であることを知られるのは許されなかったのでしょう。

子どもへの影響を恐れたのか、ムンクジンさんには祖母も父も「ヒム」について何も語らないまま、亡くなってしまいました。

 モンゴルでは、社会主義時代に国民が自分の出身氏族を誇ることができないよう、出自の記録を削除し、日本のような戸籍制度がありません。国家登録局に申請して、バサンチェレンの出生証明書を申請することはできますが、ガラムジャブが父親の欄に日本兵の本当の名前を書いているとは思えません。

 ムンクジンさんはかつて、祖父の情報を当局で調べようとして、公開を禁止されたこともあります。

 「ヒム」が生きて日本に帰還したにせよ、あるいは不幸にして、モンゴンで亡くなってしまったにせよ、「ヒム」の日本名さえ、わかれば、私は「ヒム」を特定する自信はあります。

 特に亡くなっていた場合は、私はモンゴルで亡くなった日本人抑留者1700人の9割以上に当たる1600人を超える死亡名簿を持ち帰っており、それが手がかりになります。

 生還者の場合は、ムンクジンさんの代理人となって、日本人抑留者の記録を保管する厚生労働省に照会するつもりでした。

 残念ながら、ムンクジンさんが聞いている祖父に関する情報は「ヒム」というモンゴル風の呼び名だけなので、これらの手立てを使っても「ヒム」には届きません。

 かといって、あきらめの悪い私です。ムンクジンさんの祖父捜しに関しても、私がモンゴルから持ち帰った抑留者の死亡記録を、遺族を捜し出して届けている「死亡記録配達人」の仕事に加えることにしました。

 こういう取り組みを続けていれば、いつ何時、ヒムに関わる情報に遭遇するのはあり得ないことではありません。例えば、私がまだ手にしていない私家版の抑留者の手記に、ムンクジンさんの祖父母のことが書かれている可能性もゼロとは言えません。

 私はまず、「ヒム」がどこの収容所にいたのか、その点から探る作業を始めました。国立オペラ・バレエ劇場の建築作業に当たったのは、ウランバートル中心部にあった第1収容所にいた日本人抑留者たちです。

ただ、ムンクジンさんの話では、祖母はウランバートル東部を流れるセレべ川の東岸にテントを建てて、ほかの女性らと住んでいました。その付近から「ヒム」の車で街の中心の国立オペラ・バレエ劇場の建築現場に向かっていたといい、第1収容所だとは言い切れません。

「ヒム」がトラックの運転手だったことから、セレべ川の東岸にあった自動車修理工場に付設した収容所の可能性もあります。「ヒム」がいた収容所に関するそうした私の分析をムンクジンさんにメールで送りました。

 バサンチェレンは自分の父親や日本に対する慕情を心のどこかに持っていたようです。父親の着古した、耳当てのついた軍帽をとっておいていました。

 1980年代にはこっそり、日本の演歌を聞き、目を閉じて、微笑んでいたのをムンクジンさんは見ています。

 ムンクジンさんは父の後を継ぐように眼科医となって、結婚でモンゴルを離れ、米国・テネシー州のナッシュビルに移りました。

 以前は、恵まれない家庭に医療サービスを提供する仕事にも就いた経験があるそうです。私には日本人の血を引く父と娘が医療を通じて社会貢献に尽くしているというのは、心が軽くなるような嬉しい知らせでした。

 「あなたのお父さんとあなたの写真を送ってくれませんか」と私が頼んだのに対して、ムンクジンさんは写真だけでなく、自分がカラオケで都はるみの「涙の連絡船」を歌っている動画を送ってきてくれました。

 ナッシュビルの日系米国人協会が主催する桜まつりで披露することもあるのだそうです。

 ムンクジンさんの長女のツェングジンもモンゴル日本人高等学校を卒業し、日本語で歌うのが好きで、モンゴルの全国歌謡コンテストに出場したこともあるそうです。

 

「涙の連絡船」を歌うムンクジンさん

 その動画の歌もさることながら、私はムンクジンさんの整った顔立ちに驚きました。モンゴル国民の8割を占めるハルハ族特有の頬骨が張り、一重まぶたで小鼻が横に広がっているという特徴は見受けられません。

 私には、どことなく、日本人の祖父の血を受け継いでいるように思えました。

 ムンクジンさんは、日本の抑留者遺族の前で、自分の歌を披露し、自分の祖父をはじめ、日本人抑留者がモンゴルで過ごした苦難の日々を偲びたいという夢を持っています。この中にはもちろん、「ヒム」の日本にいる親族も含まれています。

 ムンクジンの夢をかなえるためにも、私は「ヒム」を人定するとともに、親族を捜してあげたいのです。奇跡に近いことではありますが……。 

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