モンゴル抑留死亡者名簿

モンゴル抑留関連年表

※人名は敬称略。

出来事
19111129清朝で辛亥革命が起きたのを機に清朝の支配下にあった外モンゴル一帯の王公たちが化身ラマのボクド・ハーンを元首に推戴して独立を宣言。しかし、中国側は認めず、内モンゴル内では中国軍閥の弾圧で劣勢に
1919525ロシア帝国、中華民国、外モンゴル(ボクド・ハーン政権)の三者がキャフタ協定を締結。ロシア帝国と中国は、中国の領土として外モンゴルの自治を、モンゴルは中国を宗主国として認めた。内モンゴルは自治すら認められず、中国領に留め置かれた
19221230前年7月のロシア革命による帝政ロシアの崩壊を経て、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立
19241126ボクド・ハーンが死去するとソ連の後押しでモンゴル人民革命党の一党独裁によるモンゴル人民共和国の誕生を宣言。ソ連に続く2番目の社会主義国家だったが、中国、日本は独立を認めず
193231満洲事変により満洲全土を占領した関東軍の主導の下、満洲国が建国される。日本の傀儡国家で内モンゴル東部も領土にされる
1936312ソ連・モンゴル相互援助議定書を締結。事実上、日本と満州国を仮想敵国とし、議定書に基づきソ連軍がモンゴル国内に駐留
19371126ソ連・モンゴル相互援助議定書の締結に反対してモンゴル首相の座を追われたゲンデンが療養先のクリミア半島で逮捕され、日本帝国主義のスパイなどの罪でソ連の手で処刑される。モンゴルではこの年から1939年にかけて大粛清が行われ、政府、軍の指導者、学者ら3万人以上逮捕され、2万人以上が銃殺された
193952ノモンハン事件が勃発。満洲・モンゴルの国境線を巡りソ連軍・モンゴル軍と日本軍・満洲国軍が交戦。欧州で第2次世界大戦が始まったため、9月1日休戦。モンゴルでは「ハルハ河戦争」と呼ぶ
91防共目的で駐屯していた駐蒙日本軍の主導の下、内モンゴル西部地域に蒙古聯合自治政府が樹立。1941年8月に蒙古自治邦政府と政府の名称を変更
194589ソ連軍が日ソ中立条約を破って対日参戦。満洲、朝鮮半島北部、南樺太に侵攻。
810ソ連からの要請でモンゴルが対日宣戦布告。モンゴル人民革命軍はソ連のザバイカル方面軍と合流し、満洲へ侵攻を開始
814ソ連・モンゴル軍が内モンゴルの張北に侵攻。日本軍の駐蒙軍は防衛戦闘をしながら、日本人居留民4万人を避難させた後、自らも北京に撤退。逃げ遅れた自治体顧問ら7人がモンゴル軍に「戦犯」として逮捕され、モンゴルに連行、抑留される
815昭和天皇の終戦の詔勅により日本が無条件降伏
819ソ連極東方面軍総司令官の元帥、ワシレフスキーと関東軍総司令部参謀長の秦彦三郎ら沿海州のジャリコーヴォ村の戦闘司令所で会見して停戦が成立。以降、関東軍の各部隊は順次戦闘を止めて武装解除に応じる
821ソ連・モンゴル軍が満洲国境を越え、中国・河北省の古北口に進軍。日本軍兵営内での停戦交渉の隙をつき、ソ連軍使の警護部隊が攻撃を仕かけ、捕虜にされた支那派遣軍の部隊1100人はモンゴルに抑留される
823ソ連国家元首のスターリンが議長を務めていた「国家防衛委員会決定第9898号」で極東戦線の司令官らに日本軍捕虜50万人のソ連への収容と強制労働利用を極秘指令
831モンゴル閣僚会議が日本人捕虜の受け入れと労働使役の任務を内務省に委任
ソ連・モンゴル軍が中国・河北省の山海関にも進駐。逃げ遅れた鉄道関係の社員ら約700人が捕虜にされ、モンゴルに連行、抑留される
915満洲南西部・熱河省の省都、承徳で捕虜になった日本軍将兵と日本人居留民の7000人が行軍を開始。南満洲鉄道、シベリア鉄道を経てモンゴルに連行される。モンゴルへ抑留された日本人の集団では最大の規模
10日本人捕虜の第1陣がモンゴルに入る。12月まで続々と到着が続く
19461127在ソ日本人捕虜の引き揚げに関する米ソ協定成立。協定を受け、12月5日、樺太からの引揚第1船の雲仙丸が函館港に入港
194710モンゴルから日本人抑留者が一斉帰還するための出発が開始される。一方、内モンゴルから連行した「戦犯」抑留者は残留される
11モンゴルから帰還を目指した日本人抑留者のうち少佐以上は帰還船が出るソ連極東のナホトカで人民裁判の吊し上げに遭い、反動だとの理由でソ連に残留される。十数人と思われる
1949315モンゴルの吉村隊で隊員に屋外留置の処罰を科したとされる「暁に祈る」事件についての初報が朝日新聞朝刊に掲載。隊長の池田重善は参議院での証人喚問を経て7月12日、東京地検特捜部に逮捕監禁、遺棄致死容疑で逮捕され、懲役3年の刑に服した
1950422タス通信が「戦犯、病人を除く日本人の送還は完了した」とのソ連政府の見解を発表
195465モンゴルに残留させられていた「戦犯」抑留者のうち死亡者を除く4人が中国領内で犯した罪だったとしてモンゴル政府から中国政府に引き渡し。4人は内モンゴル・フフホトの監獄に拘留されたが、1955年12月18日、舞鶴港に帰還
19561019訪ソした首相、鳩山一郎とソ連閣僚会議議長、ブルガーニンが日ソ共同宣言に署名。第5項にソ連は戦争犯罪で有罪を宣告された日本人を釈放して日本に帰還させることと消息不明者の調査は続行することが入った
1226日ソ共同宣言により釈放された「戦犯」抑留者ら1025人がナホトカ航路最後の興安丸で舞鶴港に帰還
19611027モンゴルが国連に加盟(日本の国連加盟は1956年12月18日)
1966824モンゴルへ初めて抑留中死亡者の遺族8人を含めた日本政府の墓参団17人が訪問
1972224日本とモンゴルの間で国交が樹立
1977317日本とモンゴルが経済協力協定に調印。両国間で解決を要する懸念、即ち戦時賠償問題が存在しないことを確認した上で、日本が50億円(当時1700万ドル)をモンゴルに贈与。この資金でウランバートルにカシミヤ工場が建設される
1991326来日したモンゴル外相のゴムボスレンが日本の外相、中山太郎に抑留中死亡者1597人の名簿を手渡す。翌1992年10月には、同じ1597人(1612人分だったが、重複があり、名簿と同一分と判明)の死因が書かれた死亡調書が提供される
418ソ連の国家元首として初めて来日した大統領のゴルバチョフが持参してきた3万8647人分の抑留中死亡者名簿を日本政府に提供
1226ソ連邦崩壊。ロシア連邦をはじめ15か国に分割
1992113モンゴルで新憲法が制定。社会主義を放棄して議会制民主主義国家となり、モンゴル人民共和国からモンゴル国に改称
1994823日本から初の遺骨収集団がモンゴルへ
2003124来日したモンゴル大統領、バガバンディが日本の首相、小泉純一郎との会談で日本人抑留者の個人情報に関する資料の提供を表明。両国の共同声明に盛り込まれ、翌2004年8月、1万330人分の抑留者個人別登録文書が提供される
20186井手裕彦の情報提供に基づく厚生労働省の現地調査でモンゴル国防省中央公文書館にモンゴルに移送途中に亡くなった死亡者の記録があるのを確認。翌2019年3月に厚労省が記録を入手。
20227井手裕彦の情報提供に基づき厚労省がモンゴル国立中央公文書館から新たな抑留中死亡者の身元特定につながる日本語の死亡診断書、死亡調書などの記録を入手。翌2023年3月にも職員を派遣し、残りの日本語の死亡記録も入手
20231モンゴル諜報庁が日本人「戦犯」抑留者5人の個人記録を日本政府に提供。記録の存在は井手裕彦が情報提供。うち1人は初めての受刑中死亡者で、7月7日、厚労省ホームページのモンゴル抑留中死亡者名簿50音別索引に掲載される
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