モンゴル抑留死亡者名簿

長崎出身の死亡者の遺族へ記録を届ける 8人目

 4月23日、私が持っている死亡記録を届ける8人目の抑留者の遺族を長崎県松浦市で捜し出し、記録を手渡しました。

 記録を届けたのは、ウランバートル市内の煉瓦材切り出し現場で起きたがけ崩れで亡くなった陸軍兵長、福村博さん(享年21歳)(写真上)の13歳下の弟、邦廣さん(85歳)(写真下)です。

 実は、私は翌24日から、西日本新聞社の招きで、同社が主催する政経懇話会の北九州市、福岡市会場などで講演を行うなど、福岡市周辺で4日連続、講演会に出講することになっていました。

 この機会に、ずっと気になっていた記録に書かれていた北部九州の抑留者の留守宅住所周辺で聞き込みを行おうと計画を練っていました。講演会前日の4月23日、北海道から空路、福岡空港へ。レンタカーを借り、現地へ向かいました。

 福村博さんの前に、佐賀県東松浦郡相知町(現唐津市)出身の陸軍一等兵、西岡政行さん(享年26歳)の記録を届けようと、記録にあった留守宅周辺の聞き込みを行いましたが、遺族は見つかりませんでした。

 レンタカー返却の時間が迫る中で、第2の候補者として向かったのが、福村博さんの留守宅があったと記されていた長崎県北松浦郡今福町(現松浦市)でした。

 記録にあった番地は字にはなく、留守担当者の親族の名前もないため、遺族捜しは難航が予想されました。

 現地であてもなく、捜していた時、庭仕事に出ていた年配の女性を見つけ、尋ねました。

 「この辺りで、福村さんというお宅を捜しています。番地もわからないのですが、戦争で亡くなった福村博さんの記録をご遺族に届けるため、北海道から参りました」

 すると、女性は親切にも「ちょっと待ってください」と家の中に入り、電話帳を持って出てきました。

 その中に、福村姓のお宅が3軒あり、1軒は記録にあった番地と酷似していました。

 ここだと思い、たどり着くと、出てきたのが、弟の邦廣さんで、モンゴル国立中央公文書館で見つけた死亡調書の写しをお渡ししました。

 福村博さんは1946年7月15日、陸軍伍長、吉本昌栄さん(死亡者名簿の「京都6」に掲載)、陸軍兵長、岩崎貫一さん(死亡者名簿の「鳥取1」に掲載)とともに、高さ約8メートルの断崖の下で煉瓦の材料の土を掘り出し中、幅10メートル、高さ3メートルにわたって断崖が崩壊して、深さ1メートルの土塊の下に生き埋めとなりました。

 まわりの多くの日本人抑留者たちによって土が掘り出され、25分後、救出され、各種強心剤の注射や人工呼吸が行われましたが、蘇生することはできなかったと、死亡調書に記されていました。

 3人の遺体はウランバートル東部のホジルボラン墓地に埋葬されました。

 博さんは7人きょうだいの一番上の長男で、3人の姉を挟んで、邦廣さんが次男でした。

 博さんは体格がよく、軍人だった父から「相撲取りになるか、軍人になるのか、どちらかを選べ」と言われていました。「気は優しくて、力持ち」の博さんが選んだのは、軍人の道でした。学校を卒業後、志願したといいます。

 邦廣さんは「モンゴルにこんな記録が残っていたとは……」と言って、兄の不慮の事故による不幸を克明に記した記録をしばし、凝視して驚いておられました。

 福岡から佐賀、長崎と移動したため、レンタカーの総走行距離は240キロ以上。返却した店の店員さんも「1日でよく走りましたね」と驚いていました。

 

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