発見したきっかけは

新聞記者生活最後の年になった2020年1月、私は極寒のモンゴルへ調査に赴きました。同胞たちの命の保証を求めて、3人の日本人抑留者集団のリーダーが自らの危険を顧みず、モンゴル政府に提出した嘆願書を手にするためでした。
しかし、嘆願書を保管していたモンゴル外務省中央公文書館は「外国人には見せられない国家機密文書だ」として、閲覧はおろか、入館も拒否。滞在期間の半ばに「逆転開示」されるまで、私は外国人にもオープンなモンゴル国立中央公文書館に行くしかありませんでした。
ところが、日本人抑留に関係したファイルを片っ端から閲覧していくうち、収容所や病院で抑留者の最期を看取った日本人軍医や大隊長らが記した日本語の死亡記録が収められた計1100ページ超の5つのファイルに遭遇したのです。

入手を迷ったが……
入手するかどうか……。最初は迷いました。
第1は手数料の問題でした。モンゴルでは物価は安いのに、公文書の写しの手数料は1枚10円でなく、170円以上します。5つのファイルすべてを入手するには20万円超かかる計算でした。
手数料以上に頭によぎったのは、究極のプライバシー情報である死亡記録を入手したら、どう取り扱うのかという問題で、こちらの方がはるかに重くのしかかりました。
でも記録を読むと、いたたまれなくなり、このまま立ち去れば苦難にあえいだ死者の人生を 見捨ててしまう感覚に襲われました。自費で入手し、日本に持ち帰ることを決断しました。
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悲しい最期
例えば、27歳の上等兵の死亡診断書によると、この上等兵は脱走して、収容所に併設された監獄に入れられました。2週間にわたる懲罰食で建設資材現場に出され、卒倒して仲間に背負われて監獄に戻りました。翌日も休めず、煉瓦工場に行かされましたが、再び卒倒し、背負われて帰隊。軍医は安静にさせましたが、薬もなく、 翌々日、死亡しました。
2日連続卒倒というのは、さすがにシベリアの抑留先でも聞いたことがありません。診断書の死因は20代なのに「衰弱死」でした。
42歳の兵卒の死亡證明書も目が釘付けになりました。満洲では根こそぎ動員で17歳~40歳の徴兵年齢を45歳まで広げました。この人も徴兵年齢の拡大で召集されたのに違いありません。
栄養失調で休みをもらって兵室で1週間静養していましたが、起き上がろうとして床に転倒、即死しました。薬剤不足でこの間、投薬は一切なく、書かれていた死因は「急性心臓衰弱」。留守担当者として妻の名前と子三人とありました。
死亡證明書の内容は留守家族に届いたのだろうか。届いていたら、妻子はどんな思いで受け止めただろうか。そう思うとページをめくれなくなっていました。
なぜ届けたいのか
80年近い時の壁と個人情報の壁を越えて、私が遺族に届けたい、いや届けなければならないと思っている死亡記録は、下表の通り、いくつかのタイプに形態が分かれています。
ただ、それぞれに共通しているのは、内地の遺族に事実を伝えたいという作成者の軍医や大隊長らの思いです。
遠い異国の地で肉親が亡くなったと知らされた時、遺族が何を知りたいのか。いつ、どこで亡くなったという死亡日時、死亡場所は当然として、死因や死亡の経緯も知りたいのではないでしょうか。きちんと埋葬されたのかどうか、できれば葬送の情報も教えてもらいたいというのが人の情ではないでしょうか。
下表の1、2、3、4のうち、「医師配属前」などの事情で記されていなかった2人を除き、計262人は死因がわかります。私がこれまでに遺族を捜し出して死亡記録を届けた7人の抑留者のうち5人の遺族は死因を知りませんでした。「父が亡くなったのはこういう原因だったのですね」と涙を流されました。
一方、5の墓地区画図は、最初に亡くなった抑留者から1人1人、埋葬しなければ、作成できないものです。シベリア抑留では、凍土が掘れず、墓穴に何体も積み重ねたり、わずかな土をかぶせただけだったため、狼に襲われたりした例が語り継がれてきました。それだけに、「父は安らかに埋葬されていたのですね」と安堵された遺族がいました。
形態 | 記載内容 | 人数 | |
---|---|---|---|
1 | 死亡診断書、死亡調書、 死亡證明書、死亡證書 | 死亡者の氏名、年齢、死亡年月日、本籍地か住所、留守担当者、所属部隊、死因に加え、発病や治療の経過を軍医が書き込んだものも | 108人 |
2 | 現認書 | 死亡者が発生した事故について氏名、年齢、階級、本籍地、留守担当者、死亡年月日、死亡時の状況、原因を現場図とともに記載 | 1人 |
3 | 死亡報告 | 収容所のモンゴル人監督将校へ死亡者の氏名、 年齢、死亡年月日、死因を報告したもの | 4人 |
4 | 死没者一覧表 | 病院で亡くなった抑留者を死亡年月日の順で、氏名、父名、本籍地及び住所、元の所属部隊か勤務先、死因、墓地番号を記したもの | 145人 |
5 | 死亡者名簿 | 特定の収容所や病院で一定期間やある1日の死亡者をまとめ、氏名、階級を記載した名簿 | 26人 |
6 | 墓地区画図 | 4で記した145人に収容所や移送途中に亡くなった94人(うち無名28人)を加えて、どこに埋葬されたのか、を示した日本人墓地の区画図 | 239人 |
記録作成の経緯
厚生労働省によると、シベリア抑留で日本人が書いた日本語の死亡記録は、ソ連・ロシア政府提供の抑留資料の中に数枚紛れ込んでいたケースがありましたが、まとまった形で出てきたのは初めてのことでした。
なぜ、これだけの量の死亡記録がモンゴルに残っていたのか。私はモンゴル国立中央公文書館で、1947年2月25日付の捕虜管理庁長官命令第40号で「捕虜の死亡調書は日本人医師の調書を根拠にしてきたが、今後は収容所で詳しくモンゴル語で死亡調書を書くように」と命じていたことを把握しました。私が死亡記録を見つけた収容所や病院だけでなく、各収容所で日本人医師が死亡調書を作成するのが一般的だったことを裏付ける資料と言えます。
私が持ち帰った死亡記録には複数の大隊長や軍医の署名が出てきます。元々、日本軍では戦死者の軍人恩給支給の根拠とするため、外地で戦死者が出た場合、部隊長が軍医の診断の下、死亡記録を作って本国に送付することになっていました。部隊長や軍医が抑留された後もその義務に従い、本国、そして留守家族へ伝えるため死亡記録を作成していたとみられます。