モンゴル抑留死亡者名簿

対日参戦の見返りに

 日本人がなぜ、モンゴルという誰も予期していなかった国に抑留されたのか。

 それは、1945年8月9日の満洲侵攻に当たって、ソ連軍がモンゴルに要請して実現した役割に起因しています。

 ソ連軍の満洲侵攻は、満洲国の北東方面、北方面、西方面の3ルートから行われました。このうち、最も兵員や武器が多く、主力だった西方面のザバイカル方面軍はモンゴルを兵站基地としました。モンゴルはソ連に侵攻ルートを提供しただけでなく、8月10日、日本に宣戦布告、騎兵師団など約2万4000人を参戦させました。

 2022年2月24日、同じように3方向から攻めたロシアのウクライナ侵攻でのベラルーシの役割とモンゴルは似ています。しかし、ベラルーシは侵攻ルートを提供しただけで、モンゴルがいかに前のめりだったか、がわかります。

 モンゴル軍の助けもあって、ザバイカル方面軍は満洲西部の国境を突破すると他の2方面を上回る速度で満洲中央へ進軍しました。ソ連は参戦の見返りにモンゴルのインフラ建設や産業復興を進める労働力としてモンゴルへ日本人捕虜2万人の提供を約束しました。実際にソ連から提供された日本人捕虜は1万4000人となりましたが、これが「モンゴル抑留」の発端です。

ソ連・モンゴル軍の満洲侵攻後、捕虜になった日本軍兵士を撮影された写真(モンゴル国立中央公文書館所蔵)

モンゴルには理由が

 モンゴルにはモンゴルで、対日参戦に積極的にならざるを得ない安全保障上の理由がありました。1924年11月26日、ソ連に次ぐ2番目の社会主義国として独立したばかりだったモンゴル人民共和国にとって、日本は脅威でしかなかったからです。

 満洲国の成立を契機として、清朝時代から続くモンゴルとの国境について、日本が以前より10キロから20キロにわたり、モンゴル側に入り込んだところに国境線を設けようとました。これが原因で、1939年5月、ソ連・モンゴル軍と日本・満洲国軍の間で武力衝突となりました。日本では「ノモンハン事件」と呼び、戦争には至らなかった「偶発的な武力衝突」だったという認識です。

 一方、モンゴルでは「ハルハ河戦争」と呼び、完全に戦争の位置づけです。ソ連・モンゴル軍側が総兵力5万人以上、日本・満洲国軍側が2万数千人を現場に繰り出し、ソ連・モンゴル軍側に2万6000人以上、日本・満洲国軍に1万7000人以上の死傷者が出た国境紛争は、日本側が主張する「事件」の規模をはるかに超えていたのは確かです。

 この激しい戦闘に続き、同じ年の9月には、内モンゴル西部地区(現在の中華人民共和国内モンゴル自治区)に防共目的で駐屯していた日本軍の主導で傀儡政権の蒙古聯合自治政府が成立しました。モンゴル人民共和国にとっては喉元に刃を突き立てられる形になったのです。

 モンゴルは、1936年3月12日、ソ連・モンゴル相互援助議定書を締結しました。日本と満洲国を仮想敵国とし、ソ連軍がモンゴル国内に駐留するのを許す内容でしたが、日本側の動きは、その備えを加速するものだったのです。

 私はモンゴルで親日家の歴史研究者から「日本は侵略の国」という言葉を聞き、どきっとしました。

 第2次世界大戦後の戦時賠償問題は中国や韓国、東南アジアとの間がよく知られていますが、モンゴルも1946年、日本を占領管理している連合国の極東委員会に満洲国との国境紛争が持ち上がった1935年から1945年までに日本軍によって生じた3億トゥグルグ(約8000万ドル)の物的賠償と、2039人の人的賠償に対する戦時賠償が求めた書館を送っています。

 多くのモンゴルの研究者が語った「日本人抑留は戦争の結果だ」とする見解も、モンゴル抑留を理解する意味で避けて通れない歴史認識です。

日本軍の武装解除によって供出された装備品や武器の山を撮影した写真(モンゴル国立中央公文書館所蔵)

「日本人狩り」

 ソ連軍には、モンゴルに提供する日本人捕虜の確保に当たって、誤算がありました。関東軍は長期戦に持ち込もうと、ソ連・モンゴル軍の侵攻ルートから主力を満洲国の南東部に撤退させていました。このため、日本兵だけでは捕虜の提供人数は足りませんでした。

 穴埋めとして無差別の「日本人狩り」を行い、民間人も構わず、片っ端から連行しました。モンゴルに移送された日本人捕虜のうち、民間人が1割近くの千数百人を占めます。捕虜は、国際法上、交戦当時国の軍に属している軍人か軍属に限られており、シベリア抑留におけるソ連の他の抑留先でも民間人がこれだけ高率になっている場所はありません。

 民間人を最も多く捕虜にした地域は、省の官僚、裁判官、検事ら司法関係者、国策会社の幹部、一般企業の会社員、商店主ら約1000人を軍人らとともにごっそり連行した満洲国南西部の熱河省でした。

 「日本人狩り」は満洲だけではすみませんでした。ソ連・モンゴル軍は満洲全域の制圧が終わった後、万里の長城を越えて中華民国河北省の山海関にも侵攻しました。逃げ遅れた鉄道関係の社員ら数百人を連行した事実も忘れてはなりません。

 歴史の教科書だけでなく、多くの研究書でもソ連軍が侵攻したのは、満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島と書かれていますが、中華民国へも侵攻し、連合国各国の占領地域の区分からあり得なかったはずの日本人抑留が中華民国・華北地域でも起こっていたのです。

 民間人の死亡者の場合、軍人と違って、遺族扶助料、つまり軍人恩給は遺族に支給されません。それどころか、所属先の名簿が残っていないため、国が「抑留死」として認定が困難な死亡者が少なくありません。理不尽な連行の被害はいまだに尾を引いているのです。

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