モンゴル抑留死亡者名簿

死亡率の高さ

 なぜ、モンゴルで日本人抑留者の死亡率がこれだけ高かったのか。連行されてきた日本人抑留者たちの中に、40代、50代といった高齢者が含まれていたことに加えて、モンゴルの環境条件が影響していました。

 シベリア抑留全体の日本人抑留者の平均死亡率は9.6%。これに対し、モンゴルでの死亡率は12.1%で、2%以上上回っています。ことに、モンゴル国立中央公文書館に残る死亡記録の分析によると、民間人だけに特化した死亡率は18.8%と、5人に1人弱が亡くなった計算で、シベリア抑留の平均死亡率の倍以上になっています。

 第1は、モンゴルの厳しい気候です。 首都、ウランバートルの緯度はパリやウィーンと変わらず、日本人が抑留された地域の中でも南にあるため、ソ連のシベリア地域や極東地域より寒さはましだったと思われがちです。

 しかし、モンゴルは内陸性気候で、標高が平均1580mの高地にあり、冬期の最低気温は零下30度から40度になります。私は登山用のダウンジャケットに暖パン、帽子、マフラーの重装備で取材していましたが、露出せざるを得ない目のまわりは寒さを越えて痛いという感覚でした。カメラのシャッター操作をするのに手袋を脱いだだけの行為で、両手の甲に凍傷の手前の赤い水ぶくれの凍瘡ができてしまいました。

 寒さに慣れていない日本人は最初の冬、屋外労働で凍傷にかかり、凍死者も出ました。さらに体力が奪われ、発疹チフスや赤痢などの伝染病に対する抵抗力も損なわれていったのでした。

モンゴルで最も多い835人が埋葬されたダムバダルジャー日本人墓地には、「殉難の御霊安らかに」と記された慰霊碑がある。

劣悪すぎた受入態勢

 当時のモンゴルの人口は75万人でしたから、連れてこられた1万4000人の日本人抑留者は総人口の2%弱に当たる割合でした。ところが、羊を中心とした牧畜以外は未発達で、 日本人全員を生活させていくための食糧や日用品は不十分すぎました。

 モンゴルの受入態勢にも大きな問題がありました。

 頼ったのは、ソ連軍が関東軍の倉庫から押収してきた物資でした。しかし、末端の抑留者に回るまでにソ連軍、モンゴル軍、そして収容所幹部の中抜きがありました。

 私がモンゴル国立中央公文書館で確認した公文書のファイルの中には、モンゴル人の収容所所長や資材管理の幹部らが日本人に割り当てられた食糧や防寒用品、日本人の私物などを着服したとして厳重注意された記録がありました。

 さらに、収容所の幹部や作業現場の責任者らの不適切な管理から日本人抑留者が大けがを負ったり、亡くなったりしたとして譴責処分や監獄での拘禁の刑罰を受けた記録もありました。例えば、自分の車で日本人抑留者15人を乗せて移送する際、防寒措置をとらず、途中で車が故障して9人が凍傷になり、1人が凍死したケースの責任を問われました。また、建設現場で品質の悪いはしごを取りつけたため、2人の日本人抑留者が大けがをしたケースもありました。

 モンゴルが大量の外国人捕虜を受け入れるのは初めてのことでした。「捕虜を生かさず殺さず」の方針で、死なせない程度に管理していく「ソ連方式」に慣れておらず、抑留者にノルマ優先で無理な労働を強制しました。それに加えて、収容所幹部らの規律性が低く、不正が相次いだことが劣悪な環境に輪をかけたと言えます。

首都建設を日本人で

 抑留者たちの宿舎は、兵舎や共産主義国家になって廃止されたラマ教寺院、監獄の跡、車庫などそれなりの規模を持った建物が充てられました。しかし、そうした建物がない地域では、小屋や地下の穴倉を改造した施設など粗末なところに居住させられました。

 モンゴルで日本人抑留者たちはどんな労働に従事させられたのか。当時、モンゴルでは、砂漠地帯を除き、国土の北から南まで約50か所に収容所を設けました。

 労働の内容は、抑留者の5割強が送られた首都のウランバートルとその近郊と、残りの4割以外が北部、中部、南部に分散されたウランバートル以外の地域とでは違います。

 ウランバートルでは、政治、経済、教育、文化、医療を進めるための首都としてのインフラの大型建築事業に従事させられました。モスクワの赤の広場を模して作られた街の中心のスフバートル広場のまわりには、政府庁舎、国会議事堂、外務省、ウランバートル市役所(建設当時はホテル)、証券取引所(当時は映画館)、国立オペラ劇場など日本人抑留者によってできた建物が今も残っています。

 少し離れたところにあるモンゴル国立大学、国立中央図書館、モンゴル第一病院、モンゴル中央病院も抑留者たちの手によるものです。日本人の勤勉な働きぶりと技術の高さにモンゴルの人たちは目を見張り、ソ連のプロバガンダによって「鬼畜」とされていた日本人観を変える契機になったといいます。

 反面、草原が多いモンゴルでは建材が乏しく、建物建築を加速するため、建材を供給する周辺の石切場や伐採現場では過酷なノルマが設定され、斃れる抑留者が続出しました。

ウランバートル中心部で建設工事に従事させられる日本人抑留者(モンゴル国立中央公文書館所蔵ドキュメンタリーフィルムより)
日本人抑留者によって進んでいった首都のインフラ建設(モンゴル国立中央公文書館所蔵ドキュメンタリーフィルムより)

地獄の農場収容所

 一方、ウランバートル以外の地域では、農業、漁業、林業といった第一次産業やそれに付随する工場労働などありとあらゆる地方の産業に従事させられました。モンゴルでは、ソ連の指示によって、権力側の手で1930年代後半、3万人以上に上る大粛清が実行され、どこでも男性の労働者が不足していたのです。

 農場や漁獲場といった収容先へ日本人抑留者を送り込む際、モンゴル側は「食べ物が豊富だから」との誘い文句を投げかけました。しかし、現地へ行くとウランバートル周辺より激しい食糧不足に悩まされ、空約束だったとわかり、後悔する者が後を絶たなかったという帰還者の手記も残っています。

 私が2020年1月、足を伸ばしたウランバートルから約120キロ北西のジャラガラント村の農場に設けられた収容所は、抑留者の間で「地獄」と呼ばれていた場所でした。

 熱河省や山海関から連行されてきた民間人を中心に約400人が収容され、機械も全くない中で小麦の脱穀作業に従事させられました。すぐに回帰熱と発疹チフスが収容所で猛威を奮い、収容所は壊滅状態に陥りました。

  1946年2月21日、捕虜管理庁長官が副首相宛てに提出した緊急報告書には、「半分の200人以上が入院、25人が死亡し、残りの捕虜も体をこわしている。農場が具体的な改善措置をとらないため、虚弱者用収容所に残り100人全員を急ぎ移送する許可を求める」と記されていました。閉鎖に追い込まれたのです。

 1946年2月21日、捕虜管理庁長官が副首相宛てに提出した緊急報告書には、「半分の200人以上が入院、25人が死亡し、残りの捕虜も体をこわしている。農場が具体的な改善措置をとらないため、虚弱者用収容所に残り100人全員を急ぎ移送する許可を求める」と記されていました。閉鎖に追い込まれたのです。

 地方では、こうした悲惨な収容所は少なくなかったようです。

ジャラガラント村で日本人が働かされた集団農場があった付近
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