突然の帰還命令
1947年10月中旬、モンゴル側から突然の帰還命令が出されました。月末までに、11陣に分かれ、ウランバートル中央監獄に収容されていた「戦犯」抑留者を除き、日本人抑留者1万人余りが一斉に帰還の途につきました。
帰還命令は、ソ連からの指示でした。モンゴル側は大規模な建築事業が完結しておらず、まだまだ日本人抑留者を使いたいと考えていました。建築事業が終われば、次は鉄道敷設事業に、との思いまでありました。
それをソ連が日本人を帰還させるよう指示してきたのは、モンゴル人と日本人との間にいい関係が生まれつつあり、それが広がっていくのを懸念したためでした。
ソ連は、連行されたままの日本人の引揚を要請された米国との間で1946年11月27日、「米ソ暫定協定」を締結。毎月5000人の引揚を約束しており、自国に抑留していた日本人をなるべく帰還させないために、モンゴルからの帰還で引揚の枠を埋めようという思惑もありました。
帰還した日本人抑留者の代わりには、ソ連から送られてきたソ連人政治犯や中国人労働者によって労働が補完されました。
帰還は、モンゴルに移送されてきたルートを逆戻り。北部のモンゴル・ソ連国境を越えてシベリア鉄道に乗車させられ、ナホトカに到着。日本からの帰還船を待ちました。
日本人抑留者向け病院にいた入院患者もすべて帰還させよ、との命令でした。移送に耐え切れず、亡くなった抑留者もいました。帰還の途中、モンゴル国内で亡くなった抑留者について、私はモンゴル国立中央公文書館に残っていた記録を確認しました。しかし、ソ連領内に入って亡くなった抑留者はソ連・ロシア政府から日本政府に記録が届いておらず、未だに身元特定ができていません。
佐官はソ連に残留させられた
モンゴルからソ連のナホトカに到着した日本人抑留者のすべてが、そのまま帰還船に乗って帰国を果たしたわけではありません。
ナホトカでは、ソ連の共産主義思想に同化していた日本人民主グループによる人民裁判が待っていました。「将校以上は前に出ろ」と引き出され、「これが諸君の上に君臨して諸君を侵略戦争に駆り立てたのだ」として、吊し上げが始まり、将校たちは土下座して謝罪させられました。
特に少佐以上の軍幹部は「反動だ」としてソ連に残留させられることになりました。ほかの日本人抑留者たちが喜び勇んで帰還船に乗り込むのを、自分の帰還はいつになるのかと複雑な思いを抱きながら見つめるしかなかったのです。
モンゴル政府宛てに、日本人の間に広がっていた凍傷の緊急対策を求めた嘆願書を提出していた『命の嘆願書』の主人公のウランバートル日本人部隊指揮官の小林多美男・特命少佐と、日本人抑留者向け病院の部隊長だった本木孝夫軍医少佐も「残留組」に入れられました。モンゴルで自分の身の危険も顧みずに同胞の命を救うのに動いた2人は、過酷な運命を強いられたのです。
モンゴルには将官は連行されてこなかったので、抑留された日本軍幹部の最高階級者は歩兵第240連隊長の中村赳(たけし)大佐でした。その他にソ連に残留させられた佐官としては、私は長命稔中佐、稲見定一、宮田藤吉、小林太郎、小林元彦、野村透、千田豊紀の各少佐、小野英憲軍医少佐の名前をつかんでいます。全体では十数人とみられますがが、人数ははっきりしていません。
ソ連でこの佐官たちはどうなったのか。小林特命少佐や本木軍医少佐、長命稔中佐らはナホトカから沿海地方のスーチャン、アルチョムに送られていたことまで、私は辿り着きました。
憲兵出身で対ソ諜報業務に就いていた小林特命少佐は「戦犯」容疑で厳しい尋問を受け、受刑寸前まで行きました。右耳に古釘を刺す自傷行為によって精神病者を装い、2年のソ連抑留期間を経て帰国しました。
実際に「戦犯」として刑を受けた人がこの中にいたのか。ソ連での抑留中に命を落とした人が存在してはいないか。この「モンゴル→ソ連」の2か国抑留者たちに関わる資料はなく、不明のまま、歴史の中に埋もれたままになっています。
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モンゴルには「戦犯」抑留者が
モンゴルには、満洲南部や中華民国華北地域から「捕虜」として移送されてきた日本軍の将兵や民間人のほか、内モンゴルから「戦犯」として連行されてきた抑留者もいました。
内モンゴル西部地域に日本の傀儡政権として1939年9月、成立した蒙古聯合自治政府(1941年8月、蒙古自治邦政府と改称)の自治体顧問や現地の特務機関員などの立場だった日本人でした。私は少なくとも8人存在、うち7人は小山義士(よしと)、増田啄雄(たかお)、宍戸武男、矢部久夫、須佐誠、増本銀三郎、金森駿(しゅん、ないしは、すすむ)の各氏だったと把握しています。
しかし、8人は業務の事情などで避難が遅れ、モンゴル軍にとらえられました。モンゴル軍が壊滅を図ろうとしてとらえていた蒙古聯合自治政府の内モンゴル人とともにウランバートルに連行されました。
鉄格子のみで冷たい風が容赦なく吹き込む冷凍監獄に投獄され、秘密警察による厳しい尋問が始まりました。真っ裸にされ、正座させられました。疲れたり、眠くなったりして姿勢を崩すと棒で殴られ、自白を強要されました。
その末に、モンゴル側は「帝国主義日本の侵略者の忠僕となって日本特務機関や憲兵隊に情報を提供し、日本侵略軍の作戦に積極的に協力した」と、当時の日本人なら当然だった行為を罪に問い、刑期15年から25年の刑を下しました。8人は内モンゴル人の政治犯ら約6000人であふれていたウランバートル中央監獄へ放り込まれました。
そして、一般の日本人抑留者たちに帰還命令が出された後も、彼らだけは「戦争犯罪者」だとして、帰されることはなく、受刑生活が続いたのです。
今度は中国へ
受刑者となった彼ら「戦犯」抑留者のうち、現在のフフホト市に当たる厚和の特務機関員だった金森駿さんと明安旗(「旗」は清代から続くモンゴルの行政単位)顧問だった矢部久夫さんの2人が獄中で亡くなっていたことがわかっています。
残りの受刑者のうち、小山義士さん、増田啄雄さん、宍戸武男さん、須佐誠さんの4人には、とんでもない命令がモンゴル側から下されました。1954年6月5日、「罪を犯した場所は中華人民共和国内であり、モンゴル人民共和国は身柄を中国に移管する」として、ウランバートルから連れて行かれたモンゴル・中国国境の町で中国に引き渡されました。
中国側は、4人をフフホトの未決監獄に拘留しました。尋問が行われましたが、中国では罪を問われ、判決を下されることがないまま、1955年11月9日、釈放され、12月18日、舞鶴港に帰還しました。最初のモンゴル軍による拘束から10年以上の時がたっていました。それ以外の「戦犯」抑留者の消息については何もわかっていません。
仲間を思いやった人が……
矢部久夫さんは1908年(明治41年)2月16日、静岡県東益津村(現焼津市)で父親が村長を務めた名家の次男として生まれました。小さい頃から成績がいいうえ、優しい性格で、北京大学に進んで中国語を学び、現地人並みにしゃべることができたといいます。
大学卒業後、どういう道を辿ったかは、わかっていませんが、終戦時は、蒙古自治邦政府で現在の中華人民共和国内モンゴル自治区中南部に当たる明安旗の顧問を務めていました。語学力によって、「満蒙が生命線」とされた一方の「蒙」である内モンゴルでの仕事へ就くことになり、それが抑留という運命に繋がってしまったのです。
内モンゴル地区へのソ連・モンゴル軍の侵攻の一報が入ると、日本人居留民には引揚命令が出されました。しかし、奥地に調査に入っていた日本人の農事試験場職員を救出しようと逆方向に向かい、ソ連・モンゴル軍に追いつかれてしまいました。矢部さんは逮捕されてモンゴルまで連行され、政治犯が多く収容されていたウランバートル中央監獄に入れられました。
モンゴル側は、蒙古自治邦政府に勤めていたというだけで「モンゴルへのスパイだった」とみなし、刑期20年の判決を受けました。「戦犯」として受刑者になったといっても、監獄にじっとしたまま投獄されているわけではありません。乏しい食事の中で昼間は労働に出されました。常に見張りがついていました。
そして投獄から6年たった1951年8月、発熱し始めました。いつまでたっても熱は下がらず、39度以上になり、うわごとを言うようになりました。監獄でまわりにいた4人の日本人収容者の連名による陳情によって国立中央病院に救急車で運ばれました。4、5日たつと伝染病の疑いがあるということで国立伝染病病院に移されましたが、衰弱がひどく、手遅れで亡くなりました。1951年10月7日のことでした。
病に陥る前、矢部さんは逆に監獄の仲間の体調を心配する優しさを持ち合わせていました。内モンゴルから一緒に連行されてきた小山義士さんが栄養失調を来し、神経痛が起き始めると、心配をして小山さんにマッサージを繰り返しました。
小山さんはこの恩を忘れず、矢部さんが亡くなった時、遺品を日本の遺族のもとに持って帰ろうと考えました。矢部さんがモンゴルで作ったパイプや記録2冊を持っていましたが、帰還の時の身体検査で没収されました。唯一、矢部さんのパンツだけは小山さんが身に着けていたため取られず、遺族に渡すことができた、と、小山さんが帰国後、書いた手記にありました。

死後71年の身元特定
2023年7月7日、厚生労働省は矢部久夫さんをモンゴルでの「戦犯」抑留者では初めての身元特定者として報道発表。死から71年目で「抑留死」として、同省ホームページの「モンゴル抑留中死亡者50音別索引」に氏名を掲載しました。
シベリア・モンゴル抑留では、沖縄戦の犠牲者の氏名を刻印した沖縄県営平和祈念公園(糸満市)の慰霊碑「平和の礎(いしじ)」や大阪大空襲の犠牲者の氏名を刻印した大阪国際平和センタ―(大阪市中央区)内のモニュメントのような記名の慰霊碑はありません。いわば、「旧ソ連邦抑留中死亡者名簿50音別索引」と「モンゴル抑留中死亡者名簿50音別索引」が、国が「抑留死」と認めた人たちの墓碑代わりになっています。
ただし、国がホームページに氏名を掲載するのは、抑留当事国の旧ソ連やモンゴルで死亡記録があり、国内の記録と照合できた場合だけです。
実は、矢部さんの身元特定のおおもとになったのは、私の情報提供からでした。私は2020年1月、モンゴルに出向いた調査の最終日、インタビューしたモンゴル国立大学歴史学科のヘレエド・ウラングア教授からモンゴル諜報庁にあった矢部さんら5人の「戦犯」抑留者の個人記録を閲覧し、著書に取り上げたことを知りました。
モンゴル諜報庁は原則、外国人の立ち入りは無理で、私自身が入手することはできませんでしたが、帰国後、上京して厚労省にこの情報を提供。厚労省が2022年7月、職員を派遣してモンゴル諜報庁の担当課長に会って交渉したところ、翌2023年1月、個人記録の原本の記載内容を打ち換えた記録が提供され、身元特定に至ったのでした。
